20世紀少年最終章〜ぼくらの旗

20世紀少年最終章〜ぼくらの旗」 を見た。

興行的に最も大事なともだちの正体云々に関しては置いといて、

サブタイトル「僕らの旗」だけど、サブタイトルに上げるならもともとケンジ達のものだったともだちマークの旗を掲げるシーンを入れることによってともだちを倒した象徴とすれば映画的になるのではと思うのだが、最後に「僕らの旗」は出て来なくて逆に驚いた。旗を掲げるのが、象徴的に物語を終わらせる方法だと思うし、前作のラストからそれが見たくて僕は期待していたのだけれども。


ってか、映画としてダメとかそういうのはどうでもいいんですよ。 演出がおかしくてもよいし、脚本がめちゃくちゃなのも別によい。前章で耐性もついてるし。いや、もっと酷くなってるけどね。見たくて見てるわけなので。 日テレのテレビを絡めた大掛かりな宣伝も含めて、どう出るのかってのが個人的に楽しみだったわけです。(踊らされる小市民。未熟者ですわ)
というか、この映画とこの世界観が好きだから映画館に行くわけですよ。


ただ、主人公は世界の人々を救おうと戦ったのに、結局自分の物語として内輪で満足して終わっちゃう感じは教育的にどうなの!?話の回収の仕方があまりに自己中ではないか。ともだちのセカイ系な性格は、この映画の構成そのものではないか!


ともだちを生んだのは自分たちだっていうなら、せめて一言でもよいから、そのともだちのせいで死んでった人々に配慮するメッセージを入れとけよと。
結局この映画の場合、敵であるともだちも含めて仲間どうしの内輪ごとなわけで、じゃあ、ラストもケンジとともだちの関係性のなかで終わるってだけなら、彼らの外部に位置する殺された一般人たちは無視でいいんですかってことになる。

ルーキーズも敗戦した対戦相手のことを描かないで内輪で盛り上がるだけの映画というところが批判されてたけど、人命が関わりかつ正しいヒーロ−として描いてる時点でこっちの方が悪質じゃないか。


2ちゃんとか見てると、その自己中なラストで映画独自のメッセージを伝えている(しかも教育的な)と捉えられるみたいなのだが、映画の構造的にはそれが教育的によくないって結果になってしまうと感じる。


ま、はてなというある種自分の内輪的な世界でで自己主張して楽しんでるわけだから、自分に「外部のことを考えてない問題」についてとやかくいう資格はないか。

終わったあとの観客の雰囲気がかなり微妙でした。「長い」と。 ああ、やっぱ外部にいる僕らは置き去りにされたよね。現実にニコガクナインが大好きなルーキーズのファン層とは違うんだから。

とここまで書いて来たけど、
映像としては頑張ってる箇所がいっぱいあると思うし、トヨエツの一生懸命さが伝わって来ました。(俳優生命をかけて演じるといっていた香川照之がはたして命をかけていたのかは疑問。剣岳のほうが遥かに命がけでしょ!)

トモダチがゲームの終了を寂しがるように、僕も20世紀少年が終わって寂しいさ。なんだかんだいって楽しませてもらいました。こういう感じで次もジュエリーツツミ監督のBECK見るんだろうな。

うん、映画同様この日記もまとまりなく長いよね。